常識と気持ちと老害
お久しぶりです。今日ツイッターでこんな投稿を見つけました。
「アバターでのリモート会議は子どもの遊び」と一笑に付してる記事を読んでる。
— なかじ @アルトデウスBC (@nkjzm) September 7, 2021
僕はアバターで真面目に学校の講義やってたし、VR空間で会社の会議もするので全然抵抗ないんだけど、多分こういう感覚の人はたくさんいるんだろうな…。https://t.co/XP6zX2AM17 pic.twitter.com/6B8Qpg2CQS
かつて面と向かわずに告白するなんてありえないことだったしネットで恋愛なんてありえないことであったように常識からくる新しい文化の否定というのはいつの世も繰り返されていてどうせ淘汰されていくものなのでまあ老害と笑ってほっとくのがいいと思うけどね
— 比較的マイルドなオタク (@Otakyuline) September 8, 2021
私も年取ってわかったんだけど常識とお気持ちは切り離せないものでさんざん同じことを言われてきたという認識があっても新しい言葉が出るたびになんか気持ち悪いなと思ってしまうしよきとかすきぴとか相方とか未だに聞くのも抵抗がある
— 比較的マイルドなオタク (@Otakyuline) September 8, 2021
まだ理性が老害力を上回っているので普段は別に言い出さないだけで理性が衰えてそれを言い出さないという枷が外れたら老害になるんだと思う
— 比較的マイルドなオタク (@Otakyuline) September 8, 2021
とまあ、新しい文化を否定している人がいる。という投稿に反応して、老害について語っている投稿なのですが、長ったらしい上に相変わらず句読点がなくて読みづらいので要約すると
「常識とお気持ちは切り離せず、それを我慢できずに表明しだしたら老害といわれるのかもしれない。」
という投稿です。
私も最近は自分が持った感想を「老害だなあ」と思う機会が増えていて、そういう感想を持つこと自体は、気を付けていても自然に出てきてしまうんですよね。そしてそれを老害だなあと思ったらなるべく表明しないようにしている。という感じでなるべく老害を発揮しないようにしています。しかしそれでも、老害と呼ばれるようなお気持ちを表明していることはあるんだろうなあと思っていて、まあなるべく気を付けているよという話です。
若者文化という言葉があるくらい、既存の常識にとらわれない文化を形成するというのは人間の至極当然な行いであり、繰り返し行われてきたことです。それが進化であるにしろ、退化であるにしろ、進歩ではあると私は考えています。
しかし、今まで常識とされてきたものを破壊されるということに、人間が否定の感情を持つこともまた、仕方のないことだと思います。これは世代によるものでなくても、関西人が「関東は冷たいボケが通じない」と思うように、関東人が「関西人は粗雑でやかましい」と思うように今まで持っていた常識、つまり価値観と言い換えてもよいものは、容易には書き換えられないもので、それに対する順応性は歳を重ねるごとに下がっていくものだと思います。歳を重ねるごとに常識は増え、人格は形成され、積み木のようというよりはジェンガのよう、というのが一番近い気はしますが、抜いて新しく積み上げられる棒もあれば、もう抜いたら世界が崩れてしまうような棒もあって、それに対する防衛として、拒否という反応が出てしまうのは、仕方がないのかなと思います。
私がそれを認識し、抑えることができるというのも、ゆとり世代と呼ばれ続けた反動みたいなものである気がするので、できない人もいるんじゃないかなあと、そして歳をさらに重ねてしまえば、できなくなっていくものなんじゃないかなあ、と思うわけです。さらにそれに個人差と発言の範囲があって、老害というものは出来上がっていくんじゃないかなと思っているわけです。
まとめると、今回は結論から書いたような記事なので、まとめもくそもないなと思っていますが、「まあ老害になるのは仕方ない側面もあるけれど、それを老害と罵るのも若者の特権。」みたいな感じです。でもうざがられるのはたしかなので、老害のお気持ちはなるべくしまっとこうね。そんな記事でした。