SNSからはみ出す長い文章を置くところ

MastodonっていうSNSをやってるんですけど明らかに短文投稿サービスに書く文章量じゃねえっていうお気持ちを置きに来ました。

キモチップから考えるものの価値(これは主観です)

突如炎上したキモチップという文具があるんですけど、それに関してはざっくり感謝の気持ちを小切手風にして値段もつけて置いていくみたいなグッズであるということしか書く気がないんですけど、これを受けて私がまず考えたのが「その値段分感謝しているなら金額でおいていきなさいよ」ということで。

まあ一般的には感謝の気持ちを金額で表した際の金額と本当に払える金額って相違すると思うんですけど、じゃあその金額分の感謝はしてないってことじゃん…って思いませんか?私は思うので今回の記事になるわけです。

金額とはなにか

物の金額って色々あるじゃないですか、企業努力で安くしたり、人件費を削ったり、あるいは違法なことをしたりとやたら下げたがるあれなんですけど、ここでは価格競争の話がしたいわけではなくて。買い手が払う金額って売り手側が求める金額ほどシンプルに出ないと思うんですよ。

金額”それ”の価値

買う側がそれに支払っている金額というのは、基本的にはその人がそのものに認めた価値より低い金額だと思うんですけど、高いなあと思いながらも買うものってその値段出しても欲しいから買うわけであって、お金は使いたくないけどほしい気持ちのほうが勝る、もしくは必要だから買うのであって。それが例えばちょっと高いの域を超えて、これにこの値段出せないなとなったら買わないわけじゃないですか。私だってラーメンが3000円だったら多少おいしくても食べようとは思わないんですよ。市場価値っていうのはなんかいろいろな外的要因があって決まるものですけれど個々人それに認めている金額というのが幅はあってもあるわけです。

趣味の物なんて特に顕著で、他の人から見たらそんなもんにその金額を出すのはあほらしいなんてことはよくあるわけですが、本人からしたらその値段出せるものなわけで。

そう考えると、本当に金を出すとなって出せる予算の上限が”その人がそれに認めている価値である”と私は考えているわけです。

買い叩くのは買う側の損失でもある

物を買うときなるべく安く買うことができれば、自分の収入の中でより多くの物を手に入れられるわけですけど、それをしてしまえば市場は小さくなっていって、市場が小さくなっていけば供給も減っていくというのはわざわざ私が書くまでもないんですけど、本当に欲しくて買っているものでそれをやってしまうと、結局供給が断たれて自分にも被害が及ぶ。物を買うときにそんなことを意識して買うことはあまりないですが、一応頭に入れておきたい事実ではあります。

価値というものはお互いが認め合って初めて機能する

まあなんやかんや書いてきましたけれど、価値って結局人それぞれの主観で決まるもので、そのものの価値は本人にしかわからない。なんてチープなことが言いたいわけではなくて(私にとってはこれがチープ)、売り手も買い手も認め合って初めて正当な価値として機能して、売り手にとってそれが余剰な利益だったとしても、それはそれでいいわけです。

利益が出ればこれは儲かるので続けるであったり、次はもっとお金がかけられるであったり。価値を認められなければ経済的、社会的に続ける意味がなく、売り手は供給を断ち、書いては供給を断たれお互いに損をする。価値を認めて買ったそれに対して何かしらの恩恵も得られるので。

逆に売り手が邪悪で不当に利益を得るというのはお互いに価値を認められている状態とは言えないので今回は割愛します。

金額は価値である

改めて言いますが、その値段はそれの価値を決める指標なので正当に使っていきたい。お互いがお互いにとって不当にならない、それの価値を認め合って楽しく経済していきたいと考えるわけです。

キモチップが売り手に与える価値とは

さて話は戻ってキモチップです。あんまり戻る必要もないとは思うんですが、私はキモチップが相手に存在しない価値を与えていないと思うわけですよ。

ない物をもらえないと人間は損をした気分になるので、単純に負債の押し付けでもあると思いますし、感謝の気持ちを伝えたいなら言葉で。それをそれ以上の何かにしたいなら金額で。と考えるので、思ってもない金額を書いて自分の感謝を大きく見せたい見栄っ張りの道具としか受け取れないんですね。

そもそも感謝の気持ちを金額にしたのがチップなのに、それをまた気持ちに戻したら文化として退化してるじゃん。